我が子が一生寝たきりになる可能性が高いと宣告された時のことを書きます。
逞人の状況や私たち夫婦の心境、その時の夫婦を含めた家族で話し合ったこと等を詳細に書き残しておこうと思います。
- 生後約2週間の逞人のMRI画像
- 寝たきり宣告
- 逞人に対して抱いた感情
- 夫婦や家族で話し合ったこと
- その後
1.生後約2週間の逞人のMRI画像
嚢胞性脳軟化症といって、大脳と脳幹の細胞が壊死している状態だそうです。
人間の細胞は壊れてしまったら元には戻らないので、今後の回復は難しいでしょう。
自発呼吸も自発運動も逞人はすることができません。
2.寝たきり宣告
脳性麻痺の最重症の宣告をされた時は、目の前が真っ暗になりました。
この世で1番の不幸者になったような気持ちです。
先生から説明を受けていた部屋には、先生以外にも数人の看護師さんや心理士さんもいましたが、誰も何も言えなくなって、耳鳴りがするほどの静寂感に包まれました。
ここだけ重力が何倍にもなっているように感じて、胸が圧迫されて苦しくなり、しばらくは言葉が発せませんでした。
地獄どん底の空気感…
そんな中で私からやっと出てきた最初の言葉は「もう退院はできない…?早く連れて帰りたい…」でした。
か細い小さい声で絞り出した言葉だったので、え??と聞き返され、
もう一度、はやく連れて帰れたいですと言うと、少しだけ先生の顔が明るくなりました。
そこから退院するためには色んな手術が必要なことや、私たちにも医療的ケアの手技を覚えていかないといけないこと等を説明されました。
この説明中、ずっと先生の手は震えていました。
きっとこの宣告をすることに対して、どう言えばいいのかすごく悩ませてしまったと思います。
どんな子であろうと、どんな病気や症状の子であろうと、育てていくのは先生ではなく親です。
子どもへの愛着形成の大事な第一歩であったであろうこの宣告は、本当に難しかったと思います。
しかし、医療的な部分と逞人の現状と将来について、しっかりと言葉を選びながら丁寧に説明してくださいました。
いや、本当に…こんなの、言う側も辛いに決まっています。
手を震わせながらも、これからの私たち親子の生活のことを考え、寄り添っていただいた先生には、本当に感謝しています。
3.逞人に対して抱いた感情
これから先、自発呼吸も自発運動もせず、痙攣すら起こす確率はかなり低いと言われた我が子…
その子に対して、とりあえず早く連れて帰りたいと思えた母としての私を、今まで生きてきた中で1番の誇りに思っています。
その時は何が何やら分からず、きちんと全ては理解できていませんでしたが、
今思い返してみて、自分自身を褒めてあげられるところがあるとしたら、最初すぐ逞人に対してこの気持ちを持てたことです。
逞人が退院して家に初めて帰ってきたのは生後7ヶ月の頃でした。
この退院するまでの7ヶ月間にも、たくさん辛いことも苦しいこともあって悩みに悩んできました。
しかし、結局はこの最初に抱いた早く連れて帰りたいという気持ちを最優先し、それを押し通してきたことで、実現できた退院だったと思っています。
「早く連れて帰りたい」
この気持ちがなければ、どこか途中で私の心は折れていたでしょう。
逞人や夫、家族にはもちろんのこと、先生や看護師さんたちにも、本当に感謝の気持ちが尽きません。
4.夫婦や家族で話し合ったこと
夫と1番最初に目指す目標を逞人が退院することに決めました。
そのためには逞人にも乗り越えてもらわないといけない試練がたくさんありましたが、私たち親にもできるようにならないといけない医療的ケアがたくさんありました。
24時間寝たきりっ子なので、本当に文字どおり24時間目が離せません。
当時、私は育児休暇をいただいていて、何年か後に復職する予定でした。
しかし逞人の回復の見込みはほぼ0に近く、どこか園に預けられるような子ではないので、逞人の退院や在宅のためには、私の仕事は諦めざるを得ませんでした。
正直に言って、待遇や条件や環境を考えてみても、辞めてしまうには惜しい職場でしたので、少し未練はあります。少しだけ。
学んだことも多く、離れがたい人間関係にも恵まれました。
でも逞人のためです。後悔はありません。
今は育児に専念しよう!逞人に専念しよう!と夫と相談して、私は仕事を辞めました。